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       出演 & 金の計算を担当     

       枯山水荒らしの泥酔レポート  

公演レポを書きながら.png
枯山水荒らし.png

「枯山水くんは、泥酔して書いてみませんか?」

と、五十部さんから公演が終わった翌日、起きたらLINEが来てて、「怖ぇ〜」と思って、俺はなぜか毎回、五十部さんに対して「怖ぇ〜」と思ってしまう癖があって、

なぜか俺は、宇宙論☆講座の主催の五十部さんが、目の前にいてもリモートでも、いつもマジで勝手に怖くなって、五十部さんがいる場だと(2人きりでも)緊張しすぎて脳を握られて脳の形がひょうたんになるみたいな感覚になって、ほとんどまったく何も言えなくなるのですが、俺以外のこのサイトでの各メンバーの公演レポはみんな、お肉担当とか火起こし担当とかあって、枯山水荒らしは何の担当でもなくて、そういう自分は一瞬で酔っ払ってしまうという特徴しかなかったので、五十部さんへのLINEが苦手な自分はまた、既読したあとその日の夜まで置いて「了解しました!🙇‍♂️」と返信しました(そのときも酔っていた)。

 

自分は、今年(2020年)に入ってから、シラフでいる時間よりも酔っ払ってる時間の方が確実に多くて、めちゃくちゃ泥酔したあとはその次の段階があって、自分が1秒ごとに喋ったり文字をiPhoneで打ったりしているこの記憶が、起きたら完全に消えてるのがわかりながら言葉を使ってる危なすぎる段階に入るめちゃくちゃな状態のときが多々あって(今もほとんどそうなのですが)、そういう危ない段階に入ったときに限って何故かまず最初に五十部さんのLINEに、最近聞いた都市伝説とか陰謀論を長々と書いた妄文をど深夜とか早朝に送ったりとか、その日に町で見た誰かへの感情をなんとなく言語化したやつを全然握れてない柔らかく握ったおにぎりみたいな文章を、躊躇なくすぐ一瞬で五十部さんにクソLINEしては、朝起きたら既読になっててもなくてもすぐ消したりしていました。

しかし、数年愛飲していた缶チューハイ(ストロングゼロ・ビターオレンジ味)が最近生産終了したっぽくて(近所で売っていた10数店舗のファミマで一気に絶滅してしまった、なのに最寄り駅から8駅ぐらい離れたファミマだと普通に置いてる)、愛飲するお酒を他のレモンサワーの缶チューハイに変えたのですが、これが体にまったく合わず、血の味がするし、飲めば飲むほど日ごとに体調が悪くなるので、ほんとにもう酔っ払って妙な文章を五十部さんに送るのはこれで最後にしたいと思います、、。

大学を中退したタイミングで同棲してた人にフラれて、そのあと引っ越し先の近所のボウリング場でバイトしてて仕事終わったら駅前で缶チューハイ飲みまくるだけの生活を2年ぐらいフラフラやってるとき(今も変わらずめちゃくちゃフラフラしてるけど)、
いつものように酔っ払いながらツイッター見てたら『出演者は生ビール飲み放題』の募集を見て、「そんなこと思いついて実際にやろうとする人いるんだ」と思いながら、その場で応募して今に至ります(そのときも酔っ払っていた)。

 

五十部さんの演出はいつも、台本に書かれてる役を超えて役以上の何かを身体に下ろしてほしい、みたいな演出だと思っていて、我を忘れてほしい、というか、自分にとって最高の音楽を聴いたときとか、最高の映画を見たときに、自分に体があることを忘れて、自分が意識してる体と現実にある体との境界があることを忘れて、とにかく没頭するようなあの状態、あの状態のまま、大量の覚えたセリフや楽曲(なぜか毎回本番直前に台本と楽曲が揃うのでほんとにマジでキツいです)を舞台上でみんなが没頭した状態で演じきる、のが五十部さんの理想なんだろうなと勝手に思っていて、今まで宇宙論☆講座に4回(おばけ屋敷含め)参加したのですが、毎回だいたいそういうようなことを言われていた気がします。

 

役に没頭したときさらにその後ろに没頭している自分を見てる自分がいる状態が理想、みたいな話を良く聞きますが五十部さんは音楽とかフィクションの魔法を狂ったみたいに信じていて、その外で自分を見てる自分すらも消えるぐらい完全に没頭してほしいんだろうな、役者に祭礼の依り代になって欲しいのかな、とめちゃくちゃ漠然と勝手に思っていました。

 

そう思っていたのですが、今回の炭火焼肉ミュージカルで、その自分の解釈は全然違ったことに気づきました。

 

当日、河川敷きの写真の写り的に、お花がステージのどこかに必要だと思って、家にあったデカビタの瓶(好きで帰るたびに買ってて家にいっぱいあって)をあるだけ持ってきて川の水を入れて、道中の花屋で買ったお花を挿した瓶を誰にも気付かれないように10数個ほど勝手に置こうとしたのですが、五十部さんは、「か、枯山水くん!ごめん、お花はいらないんだ」とすごい悲しい顔で言ったあと、また何かしらの機材の準備に走って戻っていきました。
役者の提案を滅多に否定しない五十部さんが、どうしてそこまでストレートに否定したのか、前日渡された曲の歌詞を覚えながら考えていると、ギター担当の稲見さんが俺に近づいてきて、「花に感情があるの知ってる?」と言われ、「いえ、知りません」と答えると、「枯山水くんが宇宙論に出るよりもっと前に五十部さんから聞いたことがあって、イギリスの大学の研究で、花の感情はひとつで、花って感情的にはずっと笑ってるんだって」と言って、稲見さんはまた、本番当日なのにまだ揃ってない小道具を買いに、自転車に乗って走り去って行きました。

お花のことはそれからもよく調べてないのでわかりませんが、もしお花がずっと笑ってるとして、お花自身は多分自分がずっと笑ってることをよくわかっていない、
自分が笑っているのがわからず笑っている(という仮説?の)花を置くのを否定したということは、つまり、やっぱり、自分を消す表現というのは、没頭している自分を見ている自分が後頭部にいることなんだ、だから置くことを反対されたんだと勝手に思いました。

 

役に没頭してほしいのではなく、自分を消すこと、神を通じて相撲みたいに全人類の無病息災を願い、誰も見ないのに膨大な本番時間の膨大な台本と膨大な楽曲を完璧に覚える謎の徒労を乗り越え、そして本番で自分を消して無心で演じること、その行為というかマジで謎の徒労はもう祈りであり儀式そのものであること、あとSNSでも街角でも見られるような(お前それ本気で書いてんのか?みたいなクソリプや、お前それ自分が書かれたら書かれてるのを読む前と同じ状態で呼吸できるか?翌朝出社出来るか?みたいなクソリプや、現実でも駅前や路地で独りで怒鳴ってるおじさんがなんとなく増えてる気がしたりする)この世間のピリピリした空気がほんとにマジで収まって欲しいという願い、それが、この公演の無意識下の大義名分というか目的としてあると、誰にも言わずに自分の中だけで勝手に思ってて、完璧すぎるソーシャルディスタンスを意識しながら、膨大な台本と楽曲を、見てるとしたら神しかいない状況で本番を演じました。

それと同時に、無観客無配信という事で、誰も生で見ていないからこそ、この世にこの公演があったことを唯一の手がかりとして残ってくれる写真の映え(バえ)が、その自分を消す的な、ギリギリの憑依的な演技みたいなことを意識してるかどうかでまったく違うだろうし、

 

それ以上に、旗揚げ公演ということで、このメンバーでまず、この状況でこれをやったという経験を、このソーシャルディスタンスがもしかしたら10年後も20年後も根っこに続いてそうな空気と同時に、これからも人の繋がりが物理的にも精神的にも離れてしまいそうな状況で団体化するからこそ、五十部さんはメンバーにこの経験をして欲しかったんだろうと思います、というか、稽古(リモートで)中も本番当日も、事あるごとに「いま!このとき!こういう状況で!俺たちはこの公演をしたんだ!って思う日が来るはずなんですよ!」って、「イエティはいるんですよ!」みたいなテンションで五十部さんは何度も言ってました。

 

コロナが終息しても元どおり皆さまの前で演劇が出来るようになるのがいつになるかわからない状況ですが、そのときの世間の状況をお題として様々な形式のやばい音楽劇を、メンバー 一同思考錯誤しながら実践していくので、これからも宇宙論☆講座を追って頂けると幸いです。

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